自由にたのしく、じぶんらしく

愛情表現は人それぞれ。

人は暇だと悩む

いろんなことを吐き出して、ちゃんと人生設計したい、と思うものの、なるようになる~。と思って生きてりゃいいんじゃないか、と思ったりして、人生の考え方を決めきれないでいる。

そろそろ、私の大親友Aちゃんに会うタイミングなんだ、と思う。

深い共感にズブズブ安心したい。

昨日のデート、帰り道を半分くらい運転してたのだけど、ハノジが寝ていたので1人でいろいろ考えた。多くは、子どものこと。

どうしても、子どもの人生は気になってしまう。生きることに絶望して欲しくない、と言うのが一番根底にある気持ち。でも、人ってそう簡単には生命力ゼロ、みたいにはならないんだと思うんだよね。だから、心配しすぎ、なのか。

私はもっともっと自分の人生を考えればいいのに。

でも、子どもの幸せが、ハノジの幸せが、私の幸せになってしまうところもあって、どうにかたくさんの笑顔で暮らして欲しいと、手出し口出ししてしまっている、気がする。

子どもの幸せは子どものもの、ハノジの幸せもハノジのもの。2人の幸せに私が絡めたら、それはすごく嬉しいけど、ちょっと依存ちっくだよなー。

好きな人(子どもにしろハノジにしろ友達にしろ)が、悲しむのは本当にいや。そのために何かできるなら、したいと思ってしまう。

でもその気持ちは傲慢で自己満足。本当は、傷つくことだって大切な経験だ。

極論言えば、私がいくら大切に思っていたって、生きるか死ぬかを選ぶのさえ、本人次第なんだ。

「私はどうしたい?」

よく自分に問いかける。私は、自分がしたいと思ったことがしたい。でも、その「したいこと」が傲慢な自己満足なのは、やはりいただけないと思う。

みんな言ってくれる。

私がハノジの家に住むことを決めたせいで、子どもから実家と言うものをなくしてしまうことについて。それは気にしなくていいんだ、って。子どもにも言われた、子育て終わったんだから、もう自由にしていいって。

許せてないのは私、子どもの帰る場所を奪ってしまった、と、私のエゴでなくしてしまった、と思ってしまう。

でも、私の人生なんだ、私は私で自由に生きるのだ。好きなことするし、好きな人と暮らすんだ。

 

細かいことをぐちゃぐちゃ考えたくないけど、誰かを傷つけてるんじゃないかって不安になる。

でも、傷つけないようにしてたって傷ついてる場合もあるのだから、気にしても仕方のないこと。

 

新しい仕事をして、新しい土地で生きて、新生めぐになるんだ。

丁寧な暮らし、は、私にはできそうにないけど、私が縛られずに心を自由に生きることで、私の周りの人たちも自由になれたらいい。

幸せはもっともっとシンプルなもの。

考えて導き出せるものじゃなく、私が人生をどう感じているか、それだけなんだ。